2007年12月のI自動車メーカーでの中国実用化テストが無事終了し、その後、I自動車メーカーから要望が出された。
I自動車メーカーの主力自動車である中型セダン(長さ4700mm)を53’コンテナで6台、40’コンテナで4台積載し輸送したいというものであった。
現在のマザーラックはM型とS型があり、M型は中型セダン(長さ5100mm)が
40’コンテナで3台積載可能。S型は小型セダン(長さ4500mm)が40’コンテナで4台積載可能となっており、現在のマザーラックでは今回の要望に答えることができない。
そこでM型とS型の中間タイプのマザーラックMS型の開発がこの時スタートした。
まずは、中型セダン(長さ4700mm)をどの様にして53’コンテナで6台、40’コンテナで4台を積載するか?
下段の自動車と上段の自動車とのラップ(重なり長さ)を長くしなければならずギリギリの設計が必要となった。
又、53’コンテナと40’コンテナでは高さが約400mm違う。これをどの様に兼用できる構造にするか?
フロントピラー(前柱)とリヤフレーム(後柱)を伸縮構造とし、強度確保はもちろん、折畳み収納がどの様な状態でも可能にしなければいけない。
かなり難しい設計となったが、これら問題を1つ1つ解決し、2008年3月MS型試作1号機が完成した。
完成後、すぐに中国大連にて公開自動車積載テストを実施することとなり、大牟田を含むロッコースタッフ6名で対応することとなった。
テストでは40’コンテナと中型セダン(長さ4700mm)が準備された。
テスト前日、自動車の搬入出練習を繰返し行い、問題がないことを確認した。
その夜、ロッコースタッフ6名の靴を買い揃える為、街に出た。
6足分の同じ靴がなかなか見つからず(低価格で求めたせいもあり)大連の街を3時間近くさ迷うこととなった。
教訓その1、日本で準備できるものは前もって日本で準備すべし!
ともあれ、明日の本番の準備は全て整った。
テスト前日10時30分に招待者、関係者を含め数十名が集まる中、公開自動車積載テストが始まった。
1台目問題なく積載しコンテナへ搬入完了。
2台目を積載し、コンテナへ搬入しようとした所、途中で搬入できなくなった。
おかしい?
何かに引っ掛っている感じである。
始めての現象だ、ロッコースタッフに緊張が走る。
とりあえず確認する為、2台目自動車をコンテナから引き出した。
コンテナ内を確認した。驚いた。
上段ラックのベースフレームがへの字に変形していた。
私の頭の中は真白!顔は真青!ついでに髪も真白!(元からか)、ロッコースタッフも立ち尽す。このままではテスト続行は不可能である。ここで大牟田は冷静に決断し指示した。
すぐにガスバーナーを準備させコンテナ内で変形箇所をあぶり、変形を修正する応急処置が行われた。
ベースフレームの変形は修正され、テストは再開された。
2台目の積載、コンテナへの搬入が無事完了することができ、中型セダンが積載できることが確認できテストは終了した。
その後、ベースフレーム変形の原因求明の為、再現テストが実施された。
同じ様に自動車を搬入しても変形が起こらない。再現できない。
大牟田から「試作機を粉々にしてもかまわない、再現させろ」との言葉が飛んだ!試作機を壁にぶつけ変形を再現させ原因を求明した。
その状況を見ていた中国製造メーカは、「そこまでするか!」MS型は強度アップを含め、改良を加え試作2号機が5月に完成した。
残念ながらI自動車メーカーへの採用は見送られた。
しかしその直後、中国蘇州にある、物流機械メーカーのA社から、マザーラックの製造、販売をやらせてほしいとの要望が届いた。
このことがマザーラックの上海展示会への出展へと展開していくのであった。
次回へとつづく・・・
設計部長 花城〔文〕
您好(ニーハオ)!
私はロッコーエンジニアリング 開発事業部の中国人スタッフ 郭です。
今回は私が担当させて頂きます、皆さん宜しくお願いします。
2007年12月日系商社の現地法人 中国長春S商事様からのご紹介で、
I自動車様へのデモと実用化テストを実施することになりました。
I自動車様は中国で一番大きく、とても有名な自動車メーカーです。
I自動車様の関連物流会社であるN社は、大連から長春へコンテナで部品を輸送していますが、帰りは空コンテナの返却のみで物流コストが高く、帰りに完成車を輸送して物流コストの低減に取組みたいとの事でした。
中国内は物流も激しい競争があり、片道のみの部品輸送ではコスト競争に勝てないので、
コンテナでの往復輸送を実現し物流コストダウンが目的でしたが、
その為には自動車メーカーであるI自動車の装置承認が必要でした。
N社は過去に自社で自動車の輸送用架台を開発しましたが、安全性と作業性においてI自動車より不採用の結果が出た経緯があり、当社のマザーラックの資料を見て、長春→大連間で実用化テストをし、I自動車へ提案したいとの強い要望がありました。
2007年12月20日(木)S商事の日本ご担当者、ロッコー大牟田社長、花城部長、英則次長、郭暾熠と私の計6名は長春へ到着しました。
第一印象…とにかく“寒い” 外気温-13℃、暫く外に立っていたら彫像になりそうです。
第二印象…町中の看板、店、会社の頭文字に全て“I”が付いています!!
車も殆どがI自動車の車ばかりで、とにかくI社の力は強烈だと感じました。
ホテルに着いて荷物を置き、翌日のデモ会場に事前確認と打合せに行き、準備は全て完了。
現地S商事のご担当者様から、「何かご要望は?」と聞かれ、防寒着を買えるお店に連れて行ってもらいました。
ホテルに戻り、買ったばかりのぶ厚い服を触って、少し安心しました。
デモ本番は翌日12月21日(金)13時30分開始
・1台目コンテナ(40’×8’×9’6″)にMAZADA6×3台を搬入・搬出のデモ
・2台目コンテナ( 〃 ) 〃 搬入デモ
デモ終了後2台のコンテナは、距離1000キロの大連N社へ向けての実化テストを行います。
当日の朝7:50分ホテルを出発。
会場に着きコンテナからマザーラック搬出、工具の用意等、時間がとても速く感じました。
13時前、準備が終わりみんなで簡単にパンを食べてすぐデモ会場へ戻りました。
既にお客様が何十名もお集まり頂いており、皆様はこの新しい商品についてとても興味を持っておられる様で、周りの人の説明を聞きながらマザーラックを見たり、触ったりしておられました。 時々「さすが日本設計の物ですね!」「素晴らしい!」「今の自動車の輸送問題を解決できそう」と言う声が聞こえます。
ところが、突然皆様の顔に緊張が走りました。
?ん ?どうした ?なんかあった
私の頭の中はパニック???になりました。
新たに何人かお見えになり、御紹介して頂いた方は、長春I自動車の副社長。
御自身でマザーラックを確認に来られたのです。
とても光栄で、ちょっと緊張してきました。
13:30にデモ開始。
大牟田社長は総指揮者、英則次長は車両の運転、花城部長と郭暾熠は搬入出作業、私の担当は通訳・カメラ・ビデオ撮影です。
私はビデオカメラを持ち離れた所からロッコーの4人の後ろ姿を見て、「パンダみたい、可愛い!(防寒着が分厚く色が黒なので)、動きは遅くないけどいつもよりちょっと遅い、手が凍えてるのかな? でも顔には全然出てない!」
お客様も一心に見ています。意地悪くとても冷たい風が時々吹きますが、途中で誰も離れませんでした。
結果は大成功
I自動車の副社長はとても満足そうにうなずかれました。
「事務所へ来て詳しいことを打合せして下さい」と声を掛けられ、S商事のメンバーと大牟田社長が行きました。
残った私達は周りのゴミを掃除してから休憩室で吉報をひたすら待っていると、現場の管理員さんが「御苦労さん」と熱いお茶を持ってきてくれました。
「マザーラックという良い商品とスタッフの素質が高く、とても勉強になりました」(デモ終了後、私達が周りを掃除するのを見て感動したそうです)
12月22日(土)13:00 2台のコンテナは大連N社へ到着
マザーラックの勝負の時きたぞう、心の中で叫びました。
マザーラックから6台の車両を下し、お客様の確認を頂いて・・・問題なし!
よし! 大連で安心して餃子を食べられますよ! すごく嬉しかったです。
まずは第一歩、お客様は商品に非常に満足され、今後は連絡等S商事代理で交渉することになりました。
中国市場に期待を込めて
副課長 郭シイツ[文]
2007年5月 リーダーの大牟田含めロッコースタッフ5名は、
関西空港を午前11:30に出発。
バンコクを経由し、インド、デリーに着いたのは夜8:30(日本との時差3時間30分)。
約12時間の長旅であった。
ホテルは、5つ星の「Shamgri-La」。
インドでは、日本人は治安上このレベルのホテルに泊まらないとダメらしい。
(一流ホテルを楽しむ余裕もなく、寝るだけとなってしまったが)
今回の室用化テストは商社のI商事依頼のもと、MR S型を使用し、
デリー → チェンナイまでの約2800kmの自動車輸送であり、
陸上と鉄道の2ルートに分かれ、コンテナ各1台計2台での輸送テストである。
輸送テスト前日に、コンテナへの自動車搬入作業のデモが実施された。
自動車メーカーMS社、I商事、、他関連会社の関係者多数が見守る中、
ロッコースタッフ5名は、この日の為に新調された
お揃いのブルーの作業服を身にまとい、
一同緊張しながらも自動車搬入デモは進められた。
(多少?の内輪揉めはあったものの)
2台のコンテナに8台の自動車を積込み、搬入デモは無事終った。
翌日、MRを乗せたコンテナは陸上輸送と鉄道輸送に分かれ、
デリーを出発し、一路チェンナイへと向かった。
約7日間の輸送日程である。
7日後、日程通りコンテナは無事にチェンナイに到着。
自動車、MR共にダメージ無く室用化テストは成功のもと終わった。
その後も、インドでの室用化テストは続けられ、
2007年6月には、第2回室用化テストとして、
自動車メーカーH社でのチェンナイ → デリー約2800kmの陸上輸送。
2007年10月には、第3回室用化テストとして、
自動車メーカーT社でのプネ → ムンバイ約150kmの陸上輸送
3回実施されたインド室用化テストは全てにおいて、
自動車、MR共にダメージ無く、成功のもと終了した。
この間のインド滞在生活は大変なものであった。
まずは気候、とにかく熱い。
日中は気温45℃以上、日向での作業は3分ともたず、
日陰でも熱風により頭が「ぼーっと」!思考力低下。
5月の室用化テストでは、スタッフ1名ダウン、
もう1名は財布を紛失。
落としたのか、盗まれたのか、本人わからずじまい。
次に食事、インドは主にカレーである。
日本のカレーとはまったく違い、まったく別の料理である。
又、牛肉はダメ(インドでは牛は神様)、
米はパサパサ、ほとんど食べることが出来ず。
日が立つにつれ、独特な香辛料の匂いも気になり始め、
カレー以外の物を食べてもインドのカレー味に感じる。
味覚の異常か?
2回目の室用化テストでは、
大牟田と私は、インドから一旦バンコクに戻り(脱出?)、
牛肉に対する飢えの為か、ふたり共にステーキ(450g)をペロリ、
ようやく味覚と胃が正常にもどり、デリーへと再び向った。
またインドは、確かに貧富の差が大きく、
一流ホテルに泊るインド人(色あざやかなサリーを身にまとい)
がいるかと思えば、ホテルを一歩外に出れば
路上生活者が多く別世界となる-路上を夜ひとり出歩るのはまず危ない!
また、自動車での移動の際、信号で停車すると
必ず古びた衣服を着た小さい子供が車に近づき窓越しに手を差し出す。
(前もって商社の人から話しは聞いており、目を合わせない様にと)
無視するしかなく、心が少し痛い。
交通マナーはと言うと、インド人はせっかちなのか?
運転技術が高いのか?道路には車線がくっきりと
引かれているにもかかわらず、まったく無視!
渋滞時には、3車線の道路に車が6列並ぶことは普通であり
(車間の隙間2~3cm)それでもまだ割り込む車がある程である。
その為かサイドミラーが飛んで無い車が多い。
インド人は基本的には礼儀正しく、人に対して思いやりがある。
しかし、ある一面、非常に陽気な国民であると感じられた。
ある日のこと、バンコクからチェンナイに向う飛行機の中、
乗客は大牟田と私以外はインド人(たぶん?)5時間のフライト中
機内ではいたる所で大きな話し声、大きな笑い声がつづき、
ずっとお祭り(?)が催しされた。またCA呼出し音がとにかくすごい。
お祭りでの笛のごとく、いたる所から鳴り響き、お祭りを盛り上げた。
CAは笛(呼出し音)に合せ、踊り子さながら機内を動き廻わる。
(だがCAには笑顔はない)大牟田と私はお祭りには参加できず
後方座席に静かに礼儀正しく座っていた。
その為、機内食が私たちの手元に来たのは着陸1時間前
(でも機内食もやはり、カレー・・・結局手つかず)
またインド人の仕草も特徴があり、「YES」のときインド人は首を横に振る。
日本人とはまったく逆であり「NO」と勘違いし、最初は戸惑ってしまう。
またある日のチュンナイでの出来事、私はビール好きで、
夜は必ずビールを飲む習慣がある。
インドでは、日本の様にコンビニ等で簡単にビールを買うことが出来ない。
アルコールの規制が厳しいようだ。
明日帰国する夜のこと、ビールが飲みたくなり危険を感じながらも
安いビールを買いにひとりホテルを出た。
なかなかそれらしい店が見つからず、
20分程歩いた所でコンビニらしき店を見つけた。
店の中へ入り、一通り見歩いたがビールは見つからない。
ダメもとで、レジに座っていた店主らしき人物に言った「Beer」
店主らしき人物は首を横に振った。
「NO」ではない!「YES」の意味だ!
すると店主らしき人物が、鋭い目付きで外を見廻した後、
足元の戸棚から黒いビニールの包みを少しだけそっと出し、
黒いビニールを少しめくった。そこには、ビールらしきものが見えた。
店主らしき人物は少し微笑み私を見つけた。・・・私は考えた。
あやしい、ビールもあやしい(本物か?)
店主らしき人物も行動もあやしすぎる。
ビールは欲しいが、やめておこうと決断した!
私は「NO」のつもりで首を横に振った。
店主らしき人物はすぐに黒いビニールの包みごと私に手渡した。
「しまった!」私は「YES」の仕草をしてしまったのだ!
私は仕方なく受け取り、代金を支払った。
(後で分かったが安いビールを高値で売りつけられた)
黒いビニールの中身は本物のビール12本入っていた。
その夜、高額のぬるいビールを4本しか空にできず、
残り8本は部屋に残しホテルへのプレゼントになった。
またデリーでのある日の夜、
大牟田と私、二人は「たまにはインド美人とお酒でも」と
知り合ったばかりの運転手(少し英語の話せるインド人)に案内され、
夜の街へと車を走らせた。
街をさまようこと2時間、ようやく車が停止した。
私たちが想像していた、ネオンが煌々としたきらびやかな所ではなく、
人気のない薄暗い通り、また目付きのあやしいインド人の登場、
車の外で何やら運転手と密談・・・またまたあやしい危険な予感!
運転手と目付きのあやしいインド人が車に近づいてきた。
私たちは身がまえた。
運転手が一言「今日店休み、ホテル帰る」
・・・すーっと力が抜けた。
私たちは安堵と落胆を交じえホテルへと戻るのであった。
かくしてインドでの滞在生活は思いのほか大変であったが、
良い事もなかった訳ではない。5月のインドでの滞在では、
I商事インド会社社長宅に夕食に招待され、味比べと評して、
3種類のマンゴーを食した。
その中でも「アルフォンソ」という銘柄のマンゴーは絶品であり、
忘れられない味の一つとなった。
さまざまな体験をした、インド室用化テストであったが、
結果としては残念ながらMRの採用(現地合弁企業不成立+鉄道運賃高+MRコスト高等で)を見送られた。
MRはこれからどうなるのか?
新たな展開が待っているか?
2004年12月 小型車4台積載のマザーラックの開発が
大牟田の「4台積みたい!」の一声からスタートした。
現在のS型である。
大牟田から要望が出された
・「多種の小型車が積載できること」
・40’×9’6”(ハイキューブ)、40’×8’6”(スタンダード)兼用できること」
・「返却時の折畳み、積重ねが簡単にできること」・・・他、多数
私は思った「要望が多い はたして出来るか?」
基本構造は中型車3台積載のM型をベースとして開発が進められた。
多数の要望を取入れ 2005年6月試作1号機が完成した。
大牟田うなった。「まだまだ、だめだ!」
機能は満たしたが、かなり複雑な構造となってしまった。
この時期、M型の量産機の開発に追われ、S型の開発は一時中断となった。
2006年11月、S型の開発が再スタートされた。
試作1号機の改良検討が行われた。
構造の簡素化、コストダウン、作業性UP・・・等々
山のように改良項目がだされた。項目を1つ1つ クリアし試作2号機が完成した。
大牟田 またも うなった。「だいぶ近づいたが まだ、だめだ!」
再び 山のように改良項目がだされ、項目を1つ1つ クリアし試作3号機が完成した。
大牟田 今回うなりは無かった。「ほぼ完成 あともう少しだ!」
私は、ほっとし、「あともう少し!もう少し!」小声で喜んだ。
しかし、またしても 山のように改良項目がだされた。
今度は私が、うなった。「どこがもう少しだ!いつ?いつ完成するのか!」心で叫んだ。
2007年4月 ついに試作4号機にして量産機 S型が完成した。
当初 問題であった、多車種への対応は フロントピラー(前柱)に伸縮機能を持たせ、
上段車両の傾斜を可変にした。
返送時の折畳みも前方、後方作業の2段階作業によりスムーズに出来る構造とした。
使用コンテナは40’×9’6”(ハイキューブ)に限定し 構造の簡素化を計った。
その後、ベトナムL社様から50セット(100台)の受注が決まり納入。
又 I商社からインドでのS型導入の話が舞い込んだ。
風を感じた。
勢い良く追い風が吹き始めた。
2007年5月 改良に改良を重ねたS型を引き連れ、追い風に乗り(ジェット気流? 向い風?)
未知の地インドへと、いざ出発
設計部長 花城[文]
マザーラックのアメリカ進出!が決まったのは2005年8月。
きっかけは中国のコンテナメーカー技術部長の「自動車用架台ならやっぱり自動車大国アメリカで勝負するべきだよ」の一言でした。
それまで自分達の脳裏に浮かんではいたものの、やはりどこかで怖気づいていたのだと思います。アメリカで失敗したら次は無いのでは、という臆病風が。
「よし!やるだけやってみるか?」と社長の英断が下され、米国アナハイム(ディズニーランドの近く)で開催されたインターモーダルエキスポ(物流展示会)出展への冒険が始まりました。
FedexやDHLも出展する、アメリカでは有名な物流展示会だそうです。
専門業者に委託する資金はありませんでしたから、何から何まで自分達での手配です。
出展申込み、ブース決定、保険加入、備品手配、ノベルティ、カタログ、展示品製造~国際輸送、現地スタッフ等、ほとんどが初めての経験であり(おまけにほとんどが英語・・・Oh my god!)今思い返せば「よー あんな無謀なことやったなー」です。
日本での準備期間は約3ヶ月間(最後の最後までバタバタ)で、いよいよ出発です。
11月皆の期待を背負い、私と開発責任者の大牟田2名が現地へ向かいました。
ロスの高速道路は片道6斜線・・それでも渋滞、いったいどこからこんなに沢山の車が溢れてくるの?
トレーラーは日本の車両とケタ違いの長さ。日本で言う大型トレーラーが2台連結した車両が平気で走っている。この国には安全重視の道路交通法ってあるのかしら?
自動車文化の違いを目の当たりにし、まるでおのぼりさんの私。
開催2日前、準備の下見に訪れた会場はまだ何もない空っぽの大型倉庫のようでした。
そのひんやりした空気に包まれた時に感じた気の引き締まる思いは今も良く覚えています。
「さー、いよいよ勝負の始まりや!」
展示するマザーラック現物の荷受から始まり、積載するレンタカーの調達、ブースのセット(レイアウト、作業員への指示、カーペット選び、電気配線の指示、プラズマTV、クレーム処理・・・)次から次へと色んな事が押し寄せてきます。
「展示する車のガソリンタンクは空にする事!消防法に引っかかる!」でもレンタカーはどれも満タン状態。
修理工場に駆け込んで交渉するも、たかが燃料出しに150ドル「あほな!」
あきらめて、自分達の移動用のレンタカーを展示する事に!
でも燃料がまだ殆んど残っていたので、燃料消費と自分達のリフレッシュを兼ねてサンディエゴまで片道約200㎞のドライブ。
明るい太陽の下で食べたランチのパスタとスープは絶品でした。
(但し1人前を2人で分けておなか一杯、恐るべしアメリカンサイズ)
展示会本番では、DVDで作業動画を放映し、サンフランシスコから販売代理店の営業マンが応援に来てくれたので、大牟田は技術説明、私はひたすら来場者へノベルティの扇子配り(好評でしたよ)。
飾ってあった招き猫の置物はいつの間にか無くなっていて・・・(親切な人に貰われています様に)
作業動画のDVD放映は大変反響が良く、通りすがりに大勢の人が立ち止まって見てくれます。「オー、賢いなー」「日本人らしい」「良く考えたねー」
皆誉めてくれますが、誰も注文してくれません。
現地では理解できなかったのですが、帰国後落着いて考えてみると、製品として評価が高くても、必要とされていないのです。
日本とは比べ物にならない程の自動車大国アメリカでは、物流システムが構築済みで成熟しきっている為、わざわざ設備投資をして新しい道具、システムを導入する必要が無いのです。
2人共、やりきった達成感より、何だか良く分からない重さを肩に背負って関空へ帰って来た気がします。
展示会は成功・無事終わりました、でもマザーラックは惨敗・・・
使ったお金も半端じゃない!
しばらくモンモンと過ごした後、懲りない私達が考えた事とは、
「だったら、途上国なら需要があるのでは?」
「ベトナムでの採用はその前兆では?」
開き直って新たな活路 中国・東南アジアへと、長い旅路の始まりとは知らず・・・
統括部長 木下[文]
2004年某月。
1本の電話がありました。ベトナムで自動車輸送を行っているL社様からです。
マザーラックを是非見たいとのこと。早速、L社の社長様がロッコーに来社されマザーラックを見て一言『スゴイ!!』
話が進み、ベトナムで実用化に向けての走行テストを行うこととなりました。
輸送区間はハノイ→ホーチミン1800km。4日間の走行です。
国外での走行テストは初めて、
4日間という長距離輸送も初めて、
道は?
トラブルは?
安全は?
ベトナムの人は?
出てくるのは不安なことばかり・・・・・。
2005年某月。
いよいよ走行テストが始まりました。期待と不安を乗せていざ出発です。
私は輸送車両に伴走し、4日間のビデオ撮影と途中点検等を担当。ベトナムの道路は思ってたよりも以外とキレイでした。
途中の食事&宿泊では、おもしろいやら、ビックリやら、日本での約30~40年前にタイムスリップしたような感じで、食事はドライバー行きつけの日本で俗に言う飯屋さん(ドライブイン?)で、おいしくておいしくて!!
ある飯屋さんではドライバーの彼女がいて恥らう姿を見ながら、皆で笑いころげたりひやかしたり。
又、ある日は宿泊するホテルが無く、探して探して、3時間後やっとホテルにたどりつき部屋に入るとゴソゴソと何かが動いているのが解り見たところ、『キャー!』ヤモリの行列ではないか。
早く寝たいのですがヤモリが気になって眠れません。
そうこうしている内に徐々に睡魔が襲って来ていつのまにか寝ていました。
朝の6時に目覚めると、昨夜いたヤモリの行列もいませんでした。『あ~良かった噛まれずにすんだ』
しかし2泊している内にヤモリが友達に見えてきてダンスを見ている様な感じに変化し、人間て勝手だな~(ヤモリは害虫駆除の名人だという事を思い出して)
総人数6名のチームワークは良く、そんなこんなで4日間の最終日。
走行プランニングをしてもらっているU氏がプランニングを読み違えるアクシデントもありましたが、ようやく真夜中にホーチミンに到着。
自動車、マザーラック共にまったく問題無く走行テストは無事終了しました。
結果を受けて、ベトナムでの採用が決定しマザーラックM型100台を納入することが出来ました。
大牟田 & 花城〔文〕
1~6型(2003年7月~)
N社が試作製造した自動車輸送架台の一部改良設計
自動車を傾斜させる方法を多種考案
7~10型(2003年8月~)
当社オリジナルの自動車輸送架台の設計を開始
構想を多種考案し、図面化
11~12型(2003年8月~)
各機能がほぼ完成し、10型を基に詳細設計を開始
13型(2003年11月~)
日本にて製造した試作1号機の完成
この製作費用が販価予定の約10倍の費用を要して
?本当に販価予算内で製造できるの
?この国の製造コストって異常では
14型(2004年3月~)
13型の改良型として中国にて試作機を製造(コストは安く品質は?だが 昔は日本も?)
日本国内にて陸上・海上の輸送テストを実施
国際輸送(神戸~リバプール)テスト実施
15型(2004年7月~)
大型車、中型車兼用、コンテナ40ft×9’6”、8’6”兼用タイプを設計
16型(2005年3月~)
14型の改良型として中国にて3台製造
名称を『マザーラック』と決定し商標申請
ベトナムでの実用化テスト(ハノイ~ホーチミン間1800km)実施後、L社様へ3台納入
ベトナムの田舎の綺麗さには多々感動有り
17型(2005年6月~)
小型車用として、試作S型1号機完成
18型(2006年2月~)
16型の改良型で、コンテナ40ft×9’6”、8’6”兼用タイプ
米国展示会に出展(あるアメリカ人のコメント「日本人らしいーネ?」)
L社様へ12台納入
19型(2006年5月~)
18型の改良型として軽量化し量産化
20型(2006年10月~)
19型の改良型としての量産機
2003年7月~2006年10月までの3年間にわたり、M20型の改良等を積み重ねましたが、
少量のみ販売以外はさっぱりで、成約前になると・・×、成約前になると・・× の繰り返しでした。
ついに
?投下資金は億を楽々越えており社内に納得は?
?本当に売れる商品かな
?どうしたら買って頂けるのかな 等
?やめ様かなー
段々と被害妄想になりつつ、「そんな事は無い」とテレビの『プロジェクトX』を観て自分を主人公に置き換え奮い立たせていた事を、昨日の事の様に覚えています。
心無い友達からは「馬鹿な事に金を使うのなら、もう少し良い車でも買ったら?」・・・
「ほっとけー!!」と車内で一人の時、叫んでいる自分がありました。
「絶対山の頂上へ登るぞ」の考えがグラつきかけた時もありましたが、この後に2009年6月完成の30型、他
開発品へと進んで参りますが、買って頂ける商品作りの難しさを思い知らされ、少しずつ開花して行く開発ロードを面白可笑しくお伝えする事が出来れば幸いです。
次回は『シンチャオ、ベトナム』へと 乞うご期待。
大牟田 & 花城〔文〕
03年6月某日 私は一人の人物と打合せをしていた。
N社が試作製造した、コンテナでの自動車輸送架台があり、それを改造して欲しい。自動車を昇降(傾斜)させる時間を現状の半分以下にしたいとのことであった。
私は準備していたイメージ図をその人物に見せた。
その人物は一度うなずき言った「よし!明日横浜に行く、現物を見る、一緒に来い!!」・・・
私は驚いた、そして思った「始めて会い10分も経っていないこの展開の早さは何だ?」
「この人物は何者だ?」
そう、この人物こそこれからの長い道のりを共にする事となる、社長の大牟田その人であり、これが私と大牟田との始めての出会いであった。
私は早速設計に取り掛かった。昇降時間を短縮する為の構造を練っていた。
ところがある日話しが急転。現状試作機の改造ではなく、新たに試作機として1台製造する事となった。今ある架台の構造では要求する性能が満足できないとの判断からであった。
私は悩んだ。今までに自動車の輸送架台に関係する設計をした事が無い。
自動車をどの様に固定すれば良いのか? どの様な力が掛かるのか? 全く分からなかった。
この事を私は大牟田に話した。大牟田は言った「分かった!試作機をすぐに神戸に持ってくる。気が済むまで見ろ!」・・・またしても展開が速い。
この頃には私は少し馴れていた。
私は図面を引き、そして大牟田との打合せ。図面の修正。この作業を何度も繰り返した。
ある時問題が出た。架台の上下方向の動きをどの様にしてコンテナに固定するかだ。
コンテナはたわみによる変形が必ず発生する。それに追従できる固定方法が必要であった。
そのことについて私と大牟田は打合せをした。大牟田は急にコンテナの前に立ち、両腕を上げ、Ⅴ字に構え、腕を交互に上下に動かした。私は首をかしげた「この面白い動きは何だ?」笑いが出ようとした。
その瞬間私は閃いた、固定金具の構造と形状を。
後にサスアームと呼ばれる固定金具がこの時生まれた。
03年9月末 試作1号機の図面が完成した。
後のマザーラックM型の原形となるものである。
すぐに製造メーカーに製造依頼した。
03年11月製造メーカーから連絡があった。試作1号機が完成したと。
私と大牟田そして関係者はメーカーからのトラック到着を待った。
まだか・・まだか・・
午後3時トラック到着。そして架台はトラックから降された。
私と大牟田は架台の周りを歩きじっくりと見た。そして優しく手で触れた。
あたかも待ち焦がれた女性に対するそれと同じ様に。
さっそく自動車を架台に乗せた「うん、問題ない」。
そしてフォークリフトで昇降(傾斜)させた。自動車はゆっくりと傾いていった。
そしてピンで固定した「うん、問題ない」
私は胸をなで下ろした。そして今までの疲れが一度に来た事を感じた。
日が沈みかけ、タ日を背に自動車と架台の姿がそこにあった。
その前に大牟田がたたずみ、一度頷き「よし!」といった。
この時、大牟田の目に赤く光るものを私は見た。
ここに自動車輸送架台の試作1号機が完成した。そして、マザーラックの第1歩がここに踏み出された。
だがこの時、私は知らなかった。
これから始まる長く陰しい道のりの第1歩でもあったことを…
設計部長 花城〔文〕
2001年3月、最初の開発依頼が舞い込みました。
依頼元の紹介窓口は約20年前より取引のあるY社の取締役からでした。
内容は大型ステンレスタンクの輸送用冷却装置「キャナリングシステム」で、出来るのかな?と多少不安も含め、決断する迄に約4ヶ月前後を要しました。
専門家であるステンレスタンクのメーカー数社と面談したのですが、「できる訳が無い」「無謀である」他色々な保守的談話を頂き、開発依頼をお断りしようかと考えた時もありました。
しかし、私には20歳代の若い時代に金属の塊から色々な部品等の製造や、40歳代からの冷凍機のメンテナンス及び改良の経験があり、なぜ出来ないの?との疑問にたどり着きました。
製品開発の判断は、経験+知識+プロ仲間の集合 が不可欠で、1人での完遂は不可能であり絶対避けないといけません。各プロ(友人含め)と面談を積み重ね挑もうとする山の全容が見えてくると、「必ず出来る、解決出来る」との確信に至りました。
まず概要工程を作成、次にコストと各業務の概要をまとめ、問題点をピックアップして全体まとめの後、お客様との打合せがスタートしました。
しかし何故か開発リスクに対する具体的な書面は一切出てきません。口頭での打合せが進み、懇意にして頂いている紹介窓口の取締役の面子もあり「まあ、進めるか」で開始しました。
開発を進めて行くと、初期の各工程の詰めの甘さが次から 次へと壁、難所に遭遇し、経験、技術、知識の各プロの指導無くして進めなくなりました。
最大の難所は誰も経験していない(開発品なので当たり前なのですが)個所の理解、設計、製造、各分野の「エイヤー!」の実施でありましたが、各工学教授様の理論等を学び素直に真っ直ぐ向き合うと以外と解決する事ができました。
また不思議な事に、ひとつの壁にぶつかると、それを解決するためのヒントを与えてくれる人に出会いました。壁が7つあったなら、7人以上の助言、指導者に巡り合ったという訳です。私もメモとペンを24時間離さないで何時でも持っていました。
開発着手より約2年要しましたが非常に短く面白い事ばかりに感じて、開発(物造り)を楽しんでいる私がいました。「安くて良い商品であれば必ず売れるはずだ」等の甘いビジネススタイルでいた事を鮮明に覚えています。
結果として、6年間トラブル、クレーム等は1回も無く技術実績としてほぼ確立できたと思われますが、販売実績3台という厳しい内容となりました。
当社の既存製品は価格競争が激しくなり、利益率が低下傾向になりつつありましたので、開発製品を市場に出し安定収入を確保したいという思いは日に日に募る重いでした。
その為には製造コストダウンの為に新たな試作機製造や販路開拓等、二次開発が必須であるという厳しい現実が待ち受けていました。
開発に対する認識含め、オンリーワンの道は生半可では得られない事を痛感していました。
そうこう進めている内、新たな開発依頼が来てタンク冷却装置の二次開発を中途半端のまま、コンテナ用自動車輸送架台の開発へと舵を切り替えて行きました。
コンテナ用自動車輸送架台(後日の名称「マザーラック」)の開発依頼は友人の社長より持ち込まれました。大手のN社が長年開発している装置があり、今迄3社(3回)とパートナーを組んだが進んでおらず、当社の約25年間のコンテナの経験と開発を手掛けている事を理解した上で熱心に薦めて来られました。
?開発、?資金、?できるの・・・
さあ、マザーラックの夢、希望、現実は?
開発責任者 大牟田〔文〕
2000年7月 盛夏真最中のT都市にて、私は約1億2千万円の受注案件(設備工事)確定に向け、奔走していました。
受注先の手足となり、問題解決や役所関係、設計の裏付けなどのバックアップに、約1~2週間単位での 出張滞在ペースで、実働約3~4ヶ月を費やし、やっとのこと冷汗受注に漕ぎ着けました。
当時は何から何まで、お世話させて頂いて受注する設備工事は、業界では常職化されおり、現在の様な見積り提出後受注(金額本位)という形態ではありませんでした。
受注までの間、人・物・金に関して色々な難門があり、中でも特に人間関係には手を焼きました。
利害や好き嫌い、嫉みなどの捌きには苦心しましたが、反面、核心に近づいてくるとゲーム的な面白さを感じ、喜びや不安、悔しさといった感情が交互に押し寄せ、何とも言えない時期でもありました。
当社の本業であるコンテナの温度コントロール機器販売の売上げは、この時期年率ベースで約15%程度悪く、売上確保が最大の目的でした。
色々な経過を経て受注となり、工事開始前にコストチェックをしてびっくり! 粗利を約X%しか確保 出来ていませんでした。発注する機器メーカーに金額交渉をしても、応じてもらえず、強気の姿勢を崩しません。何とか経費を落として施工するしか方法がなく、頭を抱えながらの施工開始となりました。
12月からの冬季の設備工事現場は非常に寒く、管理、指導、連絡など様々な難門をこなし、漸く2月20日 工事終了に漕ぎ着ける事ができました。初期営業開始より約8ヶ月が経過し、工事終了後コストチェックをした所、結果はプラスマイナスゼロ、実質は赤字受注でありました。
当時の温度コントロールの設備工事は、一案件の受注獲得に何社も競争し、出張ベースであった当社のコストは明らかに不利な条件でした。その上、当社の発注メーカー側も価格を下げない強気な姿勢で、コストを下げる事も思うように出来ませんでした。
しかし、一つだけ良い事もありました。決算上の売上確保です。もちろん利益第一ですが、売上確保も当時は大事な要素でした。私が自分の非力さを痛感し、客観的に分析(相談含め)した結果が“開発”でした。
他社と同じ商品、技術、ノウハウでは、いつまでもコスト競争の舞台は付きまとい、将来も見えて来ません。松下幸之助氏や、京セラの稲森氏などの経営指導の書籍やセミナーで勉強しますと、安定や信用のある会社は、オンリーワンの商品を持ち、小さな池からダムまでの規模でしっかり人・物・金の地盤を築き、安定した収入を持つことであり、安定収入=会社運営の安定に繋がり、若い人達が夢、希望、目標を持ち、それらを達成できる仕組み作りに貢献し、私を含め、社員全員の安定した人生に繋がると確心し、開発への道へ大きく舵を切りスタートとなりました。
開発責任者 大牟田〔文〕